冒険者として

1998年に共同通信に連載した原稿です。
平田オリザ 2026.03.10
誰でも

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 今回は、1998年の春に共同通信で連載した原稿です。35歳でした。

1.発明と発見

 発明家になりたかった。

小学校一年まで、私の最大の英雄はトーマス・エジソンで、私はエジソンのような偉大な発明家になろうと心に決めていた。だが、小学二年の春、ガリレオ・ガリレイの伝記を読んで、私は、はたと困ってしまった。どうもこれは、発明より発見の方が偉いようだし、何より格好いい。これは、私にとっては、大変な驚きだった。

「発明」と違って、「発見」は、人類に直接的な幸福は何ももたらさない。地球が回っていようが止まっていようが、そんなことは私たちの生活には関係ない。けれども、「それでも地球は回っている」といったガリレオが格好良く見えるのは何故だろう。

 お客さんから、「どんなときに物語が浮かぶのですか?」と質問されることがある。おそらく世間からは、演劇は、発明の芸術だと思われているのだろう。荒唐無稽な物語を創り上げること、そのための筋立てを考えることが、劇作家の仕事だと思われているのだ。

だが私は、演劇にとって重要なのは、物語を発明することではなく、人間を発見することだと考えている。

私たちは、隠された様々な精神の振幅を持っている。ギリシャ悲劇のエディプスコンプレックスに代表されるような、日常生活の中では見えずにいる(見ないふりをしている)大きな精神の振幅。あるいは小津安二郎の映画に代表されるような、多忙な生活の中で見過ごしてしまっている微細な精神の振幅。どちらも、普段は見ることの出来ない、隠された精神の動き、働きである。これを顕在化させ、表現として結実させるのが演劇の仕事なのだ。

ガリレオの伝記を読んだ私は、その日から偉大な理論物理学者になるべく、怪しげな実験を繰り返した。それがいつの間に、劇作家になってしまったのか記憶が定かではないのだが、何ものかの発見者たらんという志だけは、いまでも変わらない。

2.作家になるということ

 物書きになりたかった。

いや、なりたかったというより、漠然と、そういった職業に就くものだと思っていた。

私の父は、若い頃は演劇の世界に身を置き、のちに生活のために映像方面に転じ、売れないシナリオライターをしていた。家には父の名入りの原稿用紙がうずたかく積まれ、私は小学校の作文は、その原稿用紙の父の名前のを自分の名に書き換えて提出した。いま思えば、いやな子供だ。

両親は共稼ぎで、家にいるのは父の方だから、父とはよく遊んだ。ただ、遊びといっても父の興味が色濃く反映して、結局、しりとり、言葉のパズル、5W1Hをバラバラに並べ替えて変な文章を作る遊びだなど、要するに言葉に関するありとあらゆる遊びをやった。

 欲しいおもちゃなどがあると、原稿用紙に、なぜそれが欲しいのか、買ったらどのような効果(?)があるのかを書かされた。とにかく何か思ったり願ったりすることは、すべて言葉にしなければならなかった。そういう、まるで『巨人の星』の星飛雄馬のような育てられ方をされたわけだが、しかしこういった教育法には、必ず弊害が出てくるものだ。

飛雄馬の場合は、プロ入り後、身体の小ささが原因で球質が軽いという欠点が露呈し、大きな挫折を味わい、その壁を乗り越えるために、大リーグボールという魔球を産み出すことになる。私の場合も、それに似ていた。

野田秀樹さんに強い影響を受けて芝居を始めた私は、戯曲を書き始めた頃は、野田さんのような美しい台詞を書くことだけを考えていた。そしてまた、自分にもそれが出来ると信じていた。だが、いかんせん、私には詩人としての才能がなかった。こればっかりは、訓練や教育ではどうにもならない事柄なのだ。 私の二十代は、父から受け継いだ美文調を、どう克服するかに費やされた。いまから思えば、その苦労も価値のあるものだが、当時の私にとっては地獄巡りのような苦しみだった。

3.冒険心

冒険家になりたかった。

私は、中学二年生のある日、自転車で世界一周旅行をすることを思い立ち、その資金を稼ぐために定時制高校に進み、高校二年の春から二年間、高校を休学して、世界二六カ国、二万キロの自転車旅行を敢行した。

どうして、そんな冒険をした男が、百八十度異なる芸術の世界に足を踏み入れたのかと、最近よく聞かれる。答えは一つではないが、冒険家をあきらめた理由ははっきりしている。

山は、一番最初に登った奴が、一番偉い。

当たり前のようだが、エベレストは、一番はじめに登った人間が一番偉い。そのあとを追う者は、単独で登ったり、無酸素で登ったり、厳冬期に登ったりと、より過激な方向を目指すしかないのだが、それでも、山は一番最初に登った奴が一番偉い。

最初に山に登った人間の漠然とした不安は、冒険をしたことのある者ならば、誰でも理解できるだろう。逆に、その後塵を拝する者は、どんなに過激な条件を加えても、それが対応可能な不安、対策を立てられる困難である限り、第一人者の栄光には近づけないのだ。

では誰もしたことのないことをすればいいのかというと、そうでもない。数年前、キリマンジャロを後ろ向きで踏破した男がいた。その馬鹿らしさは評価に値するかも知れないが、これも冒険としては、あまり優れたものとはいえない。冒険にもセンスが必要なのだ。

例えば、故植村直巳氏が優れた冒険家だったのは、その挑戦のいずれもが、卓越したセンスに拠っていたからだ。私には、そのセンスはなかった。一六歳で自転車世界一周という冒険は、なかなかのセンスだと思うが、それ以上に素敵な冒険を出来る自信はなかった。結局、私は、職業としての冒険家を選ばなかった。だが、そのことを後悔はしていない。演劇は、冒険と同等以上に、今でも私をドキドキさせてくれる。私は今も、見えない世界をつくり出すという漠然たる不安と闘っている。

最初に山に登った人間の漠然とした不安は、冒険をしたことのある者ならば、誰でも理解できるだろう。逆に、その後塵を拝する者は、どんなに過激な条件を加えても、それが対応可能な不安、対策を立てられる困難である限り、第一人者の栄光には近づけないのだ。

では誰もしたことのないことをすればいいのかというと、そうでもない。数年前、キリマンジャロを後ろ向きで踏破した男がいた。その馬鹿らしさは評価に値するかも知れないが、これも冒険としては、あまり優れたものとはいえない。冒険にもセンスが必要なのだ。

例えば、故植村直巳氏が優れた冒険家だったのは、その挑戦のいずれもが、卓越したセンスに拠っていたからだ。私には、そのセンスはなかった。一六歳で自転車世界一周という冒険は、なかなかのセンスだと思うが、それ以上に素敵な冒険を出来る自信はなかった。結局、私は、職業としての冒険家を選ばなかった。だが、そのことを後悔はしていない。演劇は、冒険と同等以上に、今でも私をドキドキさせてくれる。私は今も、見えない世界をつくり出すという漠然たる不安と闘っている。

4.経済

 商売人になりたかった。

いつからそう思い始めたのか、なぜそう考えたのか、今となっては判らないのだが、商売人になって、しこたま金を儲けるのが夢だった。自転車世界旅行などの冒険は十代のうちに終わらせて、その経験を生かして商売を始めるというのが、私の人生の青写真だった。

子供のころから伝記を読むのが好きだったから、何か経済人の立身出世の物語を読んで、そう考えたのかもしれない。あるいは、若いころに誰でもおちいる、狭い意味での唯物主義が原因かもしれない。ともかく、経済活動こそが人間の最高の営みであると思っていた。

そんなわけで、中学時代の私の読書は、植村直巳や、『サハラに死す』の上温湯隆といった冒険書と、小説と、そして『これからの日本経済』『株で儲ける』といったたぐいの経済書、ビジネス書にきれいに三分された。

だが世界を回るうちに、商売への思いはどこかに飛んで、私の関心は文学や思想の世界へと傾斜していった。別に、「人間、金より心だ!」と悟りを開いたわけではない。ただ新しい国、新しい人と出会ううちに、価値観は相対化され、「まぁ金だけが人生でもないだろう」といった程度の認識は得たわけだ。

もう一つ、自転車旅行というのは、とにかく一日中、自転車をこいでいるわけで、考える時間だけは腐るほどある。人間、考える時間が多いと、その思索の行き着くところは、「人間とは何か」という問題になるのであり、その問題に答えを与えてくれるのは、やはり経済ではなく、文学や哲学の側にあるだろうと、そのときは考えた。結局、帰国後、私は大学入学資格検定試験を通り、哲学を学ぶために大学に入学した。

あのまま商売の道を歩んでいれば、今頃はきっと大金持ちになって、いまのように日々の暮らしに汲々としたり、〆切に追われることもなかっただろう。人間、あまり考える時間が多すぎると、ろくなことがない。

5.ランボオ

十代のころの夢をつづったこの連載も、今回で最終回である。

十代で冒険家。

二十代で劇場支配人。

三十代で劇作家。

まず、それぞれの分野で、そこそこの成功を収め、さて、それでは、いま私は何者になったであろうか。何を得たであろうか。

十代の一時期、私は、詩人アルチュール・ランボオのことばかり考えていた。ランボオのように生きたいと願っていた。

ランボオが詩を書いたのは、十五歳から十九歳までのほんの数年間で、あとの半生は、植民地志願兵を皮切りに、およそ文学とは縁遠い生活を送っている。

十代で詩人。

二十代で探検家。

三十代で砂漠の商人。

そしてランボオは、三十七歳、幾たび目かのアフリカへの旅の途上、マルセイユにて客死する。

もうすぐ私も、ランボオの死んだ歳を迎える。自分の才能のなさを棚にあげて、先人の死の歳を想うのは愚の骨頂だが、それでもやはり、いま再び、ランボオのことを考えずにはいられない。生きながらえていれば、四十代のランボオは、いったい何をしていただろう。

旅は、ここではないどこかへ、自分の居場所を探し求める行程である。経済活動や、科学の探究なども、似たところがあるかもしれない。一方、芸術は、なかんずく演劇は、いま、ここで、この場所に踏みとどまって、自己とは何かを突き詰める作業である。どちらも真実などないことは承知のうえだが、魂の彷徨の、目指すところが異なるのだ。

世界中に五万といるだろうランボオのなり損ないの、そのうちの一人である私は、やはり、もう少し、この悪あがきを続けなければならないだろう。四十になっても、五十になっても、この放浪は続くだろう。

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