「無」の芸術家

1996年に小津安二郎について書いた文章です
平田オリザ 2026.03.02
誰でも

今回は、1996年3月、ちょうど30年前に書いた小津安二郎についての原稿です。

新刊『寂しさへの処方箋 -芸術は社会的孤立を救うか-』、大変好評をいただいております。ご喧伝ください。

小津安二郎という人がいた

「無」の芸術家

映画の歴史はたかだか百年だから、その間のベストテンを選出するのは、他の芸術ジャンルに比べてさほど難しい作業ではない。昨年は映画百年の年ということで、そのような企画が目白押しだった。そして、そのいずれのランキングにも、必ず入る日本映画が二つあった。黒沢明監督の『七人の侍』と、小津安二郎監督の『東京物語』だ。

 時代劇の黒沢明と違い、日本人の日常生活を淡々と映し出す作風の小津作品が、これほどに世界の大きな注目を集め続けるのは何故だろう。それはおそらく、小津が、他国の若い映画作家たちに、他の作家とは大きく異なった「日本的映像技法」とでもいうべきものを示し、強い影響を与えたからに他ならない。

 『麦秋』『東京物語』『秋日和』あるいは『秋刀魚の味』。もし、読者諸兄諸姉が、まだこのどれも観たことがないなら、この文章を読み終えたとたんに、レンタルビデオ屋に飛んで行って、どれか一つでもご覧になることをお勧めする。派手なSFXもなしに、ただ真摯に人間の姿を描いていた古き良き日本映画の姿がそこにある。

 日本的な、あまりに日本的な映像作家であった小津安二郎の生涯を、まずは駆け足で追ってみよう。

 小津安二郎は、一九○三年、東京・深川で生まれた。

 一九二三年、松竹に入社。関東大震災の年である。

 一九二七年、監督第一作『懺悔の刃』を作る。昭和の始まりとともに、小津安二郎の映画人生がスタートした。

 その後の小津の足取りは、比較的順調だ。一九三一年の『東京の合唱』がキネマ旬報(以後キネ旬)の年間ベストテン第三位に入ると、それ以降三年連続のキネ旬最優秀作品賞を受賞。こうして小津は、またたく間に、日本を代表する映画監督にのし上がった。

 だが、批評家には受けが良かったが、どうも観客は入らなかったらしい。『生まれてはみたけれど』のベストテン一位が決まったとき、松竹の重役がキネ旬の編集者に「あの映画が一位じゃ困る。全然客が入らないんだから。衣笠貞之介監督の『忠臣蔵』にしてくれないか」と言ったという。

一九四一年、『戸田家の兄妹』が初めての大ヒット。翌年の『父ありき』もヒットし、国策映画として賞賛される。ところが、この二つのヒットが仇となったのか、四三年からは軍報道部映画班員として南方戦線へ従軍。終戦をシンガポールで迎え、約半年間の捕虜生活を経験する。

 さて、小津の名声を決定的なものとし、のちに世界映画史にその名を残すことになる中心的な業績は、やはりこのあと、戦後の一連の作品群だろう。映画界に復帰した一九四七年から六二年までの十六年間で十五本、ほぼ一年に一本のゆったりしたペースで、小津は珠玉の名作を紡ぎだしていく。

だが、小津が国際的な評価を得るのは意外に遅い。一九五一年、黒沢明が『羅生門』でベネチア映画祭のグランプリを獲得し世界的映画監督としての第一歩を踏み出す。溝口健二の『西鶴一代女』『雨月物語』がそれに続き、日本映画は名実ともに黄金時代を迎える。そんな海外進出を前提とした映画作りの風潮に対して、当時の小津は「横浜の弁天通りに売っているような、(外国人向けの)お土産みたいな映画は撮れない」「ぼくは例えば豆腐屋なんだから、ガラッと変わったものをと言ってもダメで、やはり油揚げとかガンモドキとか豆腐に類したもので、カツ丼を作れったって無理だと思うよ」と語っている。

しかし、豆腐を作り続けた職人の名声は、本人の思惑以上に、国内外に広まっていく。

 一九五八年、ロンドン映画祭で『東京物語』がサザランド賞受賞。同年、紫綬褒章受賞。翌五九年、映画界初の芸術院賞受賞。

 だが、好事魔多し。六二年、これも映画界初、当時最年少で芸術院会員となった翌年に、小津安二郎は帰らぬ人となった。享年六十歳。

 豆腐屋を自称した小津安二郎は、徹底して、家族、特に親子の情愛についての描写を続けた。例えば『東京物語』の芸術祭の入賞の知らせに対して、小津は次のように答えている。

「あの作品を見て泣いたりすることは私も脚本を書いた野田君も計算に入れていなかった。ただ親子の関係を否定も肯定もしないで、ありのままに書いてみよう」

 気負わず、てらわず、小津は、職人という言葉が似合う監督だったようだ。だが、その演出の厳しさはつとに有名だった。別に怒鳴るというわけではないが、気に入ったカットが撮れるまで、何度でもリハーサルを繰り返す。例えば、「巻き尺を手にとって、右手に二回、左手に三回巻いて、ゴクリと唾を飲んで、あとはぼっとしている」といった何気ない仕草が、五十回、六十回と繰り返され、やっとOKが出る。当時、すでに名優の誉れ高かった森繁久弥がこれをやられて、すっかりしょげ返ってしまったという逸話も残っている。

小津が映画界に残した遺産は、単に個別の作品だけではない。

 ローアングル。畳の上で暮らす日本人の生活様式を克明に描写するために、カメラのポジションを極端に低くして、なめるように撮影する技法。

空ショット。風景や、人物のいない室内などを多数挿入して、場所の雰囲気や季節の移り変わりを示す。

 ただ、小津の場合には、西洋の監督と違って、この空ショットが登場人物の心理的な動きからではなく、一見無意味に挿入される。ここが小津の、もっとも注目すべき点である。

 それまでの西洋の作家が、ドラマを進行させるためのプロット、一つひとつの事件の積み重ねを重視してきたのに対して、小津はプロットやストーリー性を大きく後退させ、そこに登場する人物たちの生きた時間と空間を描くことを重視した。

 行為を描く映画から、存在を描く映画に、コペルニクス的転回が起こったわけだ。そこでは、台詞は、能弁さよりも、時候の挨拶や感嘆詞が多用される。演技的には、アクションよりリアクションが重視される。これは、明らかに静かな革命であった。

だが、このような映画史に大きな影響を与る大転換も、小津の存命中は、的確に評価されたわけではなかった。高度経済成長下にあった日本の当時の批評家や若い映画監督のなかには、小津の作品を中産階級の趣味に迎合した保守的作品だと非難する者も多かった。

 いま、バブル崩壊後の日本は、自分たちの生活に根ざした芸術文化の立脚という大きな壁にぶちあたってあえいでいる。いまこそ、小津の提示した思想と技術について、もう一度、私たちは考えてみる必要があるのではないだろうか。

北鎌倉の駅を降りて、踏切を渡るとすぐに、円覚寺がある。参道を昇って右に折れると小さな墓地があり、その一画に小津安二郎の墓がある。墓石には「無」と一文字書き込まれている。小津安二郎は、まさに、「無」という観念を「技」にまで高めた芸術家だった。

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